霞ヶ浦の漁業の歴史
霞ヶ浦アカデミー案内パンフレット(2009年)記載の資料です。

縄文時代
 霞ケ浦北浦周辺の台地に残された縄文時代の200に及ぶ貝塚からは、クロダイ、マダイ、スズキ、フク、ニシン、 マハゼ等の魚類の骨やハマグリ、シオフキ、サルポウ、マテガイ等の二枚貝やアワビ、アカニシ等の巻き貝の貝塚が 確認されていて、人々が当日寺内湾であった霞ケ浦の環境や生物群を上手に利用していたことを知ることができます。 現在、谷津田として残る複雑な地形は、当時の内湾とそれに連なる台地の跡で、自然が如何に豊かであったかを示唆し ています。貝塚の中からは、動物の骨でつくられた釣り針やモリが発見されています。驚いたことには、漁網にとり つけられたと見られる石錘が見つかっていて、予想以上に高度な漁労技術が存在していたことを伺うことができます。

「常陸風土記」の中に見る漁業
 西暦714年頃に編纂された「常陸国風土記」にはこの時代の産物の記載がありますが、当時内湾の出□付近に位 置し、最も塩分濃度の高かった浮島や麻生では藻を焼いて塩を作ったとあります。奥部に位置していた高浜入り付近 でさえも、たくさんの人々が蛤を拾ったとありますから、当時の高浜付近に蛤の生息に適した砂浜が広がっていたこ とを示しています。「様々な生物がいるが、鯨だけは見たことはない」との記述がありますが、このことは、当時の 霞ケ浦が如何に豊富な海の幸に恵まれていたかを示唆しています。


漁業の専門家、海夫(かいふ)の登場

 平安時代の末期になると、海夫という漁業や舟運を専門的に行う人々が現れます。香取社に漁獲物の一部を税として 納め、霞ケ浦での活動の自由を保障されたといいます。、鎌倉時代の「海夫注文」には、海夫の拠点となった津が記され ていますが、利根川下流の飯沼から高浜入りの大井戸や美浦村の舟子にまで及ぶ湖岸一円に分布していたことがわかり ます。

内湾から湖へ、湖の漁業の始まり
 16世紀になると角逐と治水対策が活発になり、当時東京湾に流下していた利根川の瀬替えが、館林市付近の利根川 で始まり、この舟運・治水対策として行われた土木工事の試行錯誤の結果、17世紀中頃には、ついに利根川は銚子へ と流路をかえます。利根川が運んでくる土砂によって、かつて湾であった霞ケ浦の出口が埋めれて行き、汽水湖の霞ケ 浦が誕生します。内湾が湖沼へと代わるとともに、そこに生息する魚類も海魚から淡水魚へと代わって行きました。江 戸時代には、大徳網、地引網、網代、おだ等の大型の漁業や掛け網、張網、笹浸等のやや小型の漁業までのさまざまな 漁業が行われるようになります,又、禁漁期間や禁漁区を設ける等の厳しい漁業制度が作られています。

現代漁業の黎明(れいめい)

 明治時代にはいると時代を反映して、機動性を有する省力型の帆引き船が登場します。1880年、折本良平によってシ ラウオを対象として開発された帆引き漁業が、1889年柳沢徳太郎によってワカサギ用に改良され、新たな漁業とし て活躍を始めます。この帆引き業は1966年に更に機動力を備えたより省力型の漁法であるトロール漁業が登場する までの77年間にわたって、もっとも効率的な漁業として活躍しました。 1901年には、漁業法が制定され、漁業組 合が誕生します。この時代に漁業の対象となったのはワカサギ、シラウオ、ウナギ、ハゼ類、コイ、フナ類で、エビ類 も加工方法が開発されると重要な資源として漁業の対象となります。加工技術も大きな進歩を遂げ、鮮魚としての利用 に止まらず、煮干し、佃煮は文化2年(1805年〕に、江戸佃島で最初に商品化されましたび、麻生町の奥村謙三がその技術 を習得し、生産が開始され、その後霞ヶ浦沿岸一帯に広がっていきました。また、佃煮は、軍需品としても珍重され明 治10年の西南戦争や明治27年の日清戦争でも兵隊の食料として用いられています。
   明治30年頃の大徳網操業風景


漁業の第1期黄金時代

 明治以降についてみると漁獲量の多かった時代が2回あります。第一回目は1920年(大正10年)頃で、ワカサギ、 シラウオ、ウナギが豊富に漁獲された時代です。特に、最近、殆ど見かけることのないタンカイ(和名カラスガイ)が 年間8千トンも漁獲され、食用に供されただけでなく、貝殻からはワイシャツのポタンが製造されました。この時代に は、ワカサギ、シラウオ、ウナギの資源量が極めて高く、コイやフナはやや低めとなっていて、貴重な水産資源となっ ていたようです。
 霞ヶ浦、北浦の漁獲量の推移